<?xml version="1.0" encoding="utf-8" standalone="yes"?><rss version="2.0" xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom"><channel><title>UI on okuzawatsの日記</title><link>https://okuzawats.com/categories/ui/</link><description>Recent content in UI on okuzawatsの日記</description><generator>Hugo</generator><language>ja</language><copyright>© 2019 okuzawats</copyright><lastBuildDate>Sun, 09 Aug 2026 21:24:00 +0900</lastBuildDate><atom:link href="https://okuzawats.com/categories/ui/index.xml" rel="self" type="application/rss+xml"/><item><title>「表層UIデザインの解剖学 ユーザーの知覚に訴える「見た目」の作り方」を読んだ📚</title><link>https://okuzawats.com/blog/user-interface/</link><pubDate>Sun, 09 Aug 2026 21:24:00 +0900</pubDate><guid>https://okuzawats.com/blog/user-interface/</guid><description>表層UIデザインの解剖学 ユーザーの知覚に訴える「見た目」の作り方を読みました。
かつて、マーシャル・マクルーハンは「メディアは拡張である」と言いました。ここでいうメディアとはいわゆるマスメディアを指すものではなく、「medium（媒体）」を指します（その意味では、マスメディアもmediumに含まれると言えます）。UI、すなわちUser Interfaceは、人間がコンピュータあるいはコンピュータネットワークを用いて身体を拡張するものと言えるでしょう。
身体を拡張するからには、UIは身体性を持つ必要があります。手足と同様に操作できるという意味です。手足と同様に自然に操作できるということは、ユーザーのメンタルモデルを深く理解し、それを設計・実装することに他なりません。例えばボタンの意味を考えさせるのではなく、「このボタンを押したらこうなるだろう」という判断を意識の前段階・無意識に行えなければならないということです。これは、ユーザーが学習済みだろうこと、そして人間の認知システムを理解した設計・実装を要求します。
本書では、表層UIを「スマートフォンやPCの二次元スクリーン上に映し出される画面のビジュアルインターフェース部分」に、インタラクションおよびコミュニケーションを加えたものであるとしています。それは、慣性や摩擦といったアニメーションであり、影やぼかしといった現実世界のメタファーであり、それらはユーザーの認知に基づき設計・実装されるべきであるということです。そのように設計・実装されることで始めて、UIが身体の延長となると言えます。
ユーザーは、UIを必ずしも言語化して評価しません。「なんとなく」「違和感」の積み重ねが、システムに対する信頼性を損ないます。システムのバックエンドをどんなに精緻に作り込んでも、表層UIが「なんとなく」ダメなら、それはダメなのです。「なんとなく」にこだわり、作り込めるか否か？こだわり切れるか否か？に、UI（ここでは、あえてソフトウェアと呼ばずにUIと呼ぶ）を作る者としての矜持があります。
本書では、これを「単なる効率性や美しさを超えた、人間の認知的可能性を最大限に引き出すインターフェースの創造」(本田(2026, p.159))こそが我々の目指すべき場所であると表現しています。本書で念頭に置いているのはインターフェースの設計者としてのデザイナーですが、インターフェースの実装者としてのエンジニアのひとりとして、人間の拡張に貢献する責任を負っていることを自覚させられた本でした。
Reference 本田雅人, (2026), 表層UIデザインの解剖学 ユーザーの知覚に訴える「見た目」の作り方, 技術評論社 小林啓倫, (2013), 今こそ読みたいマクルーハン, マイナビ新書</description></item></channel></rss>